抽象語を使うなら、具体的事例のイメージがないと
抽象語はいつの時代も「それっぽいこと」として使えてしまう。
野球の指導をするにしても
・もっと頑張らないと
と言うのと
・バットコントロールを良くするために〇〇の練習をこれだけやらないと
という指導ではまるで異なる。
また、自己啓発本なんかも大抵は抽象語を使ってる。抽象語を使い、誰にでも当てはまる言葉を使い、読み手をやる気にはさせるものの、その具体的イメージは読み手側が抱けないと意味がない。なんとなく、それっぽいやる気になるのだ。
少し話が脱線するが、知識の勉強をする際にも、専門知識(具体的な言葉)を勉強せず、抽象語(あり方など)
を勉強し過ぎてしまう人が実は多い(私もその1人だ)。例えば、人間の意識やあり方について勉強するために、「人間とは何か?」という本を読んでしまったり。
建築家になるために建築物の勉強をせずに建築とは何か?という勉強しかしなかったり。
本来は専門知識⇄あり方の行き来をすべきである
下関高校監督の考え方はちょっとだけ正しいと思った
話題になっている下関高校監督のこのインタビュー。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170812-00000006-nkgendai-base
色々と突っ込みどころ満載。私なら「え、その練習の何がいいのか教えてくださいよ」とか言っちゃうタイプ笑。
時代錯誤。スパルタ。色んなイメージをコメント欄でもみかける。
さて、しかし。私は唯一頷いた点がある。勉強を諦めさせて(笑)野球にだけ集中させている点である。
この監督は文武両道は不可能という謎理論を持っているが、それは間違い。文武両道で結果を出しているチームは山ほどいる。
しかし、ハナから偏差値が低いこの高校はスパッと勉強を捨てるというのもアリではないのか。
逆に、高校までスポーツ経験なしで運動オンチ、でも成績だけは優秀な人が甲子園を目指す必要はあるか?
もちろん、偏差値が残念なら将来を心配するのはわかる。しかし、「ただ偏差値が低い高校の生徒」より、「偏差値は低いけど甲子園出場できた生徒」のほうがいいだろう。(偏差値30代の高校が40代を目指すより、別の価値を作ったほうがいいんじゃね?とも思う)
大半の人はどこかで他の人に比べて何かをサボってしまう時期がある。それで失った時間は取り戻せない。しかし、そこから何ができるか、何を伸ばせるか考えるのかによって良い差別化ができる。
※何度も書くけど絶対にこの監督の指導は受けたくない笑
8/11 物理的知識と自己啓発知識の違い
私の人生で大発見だ。
タイトルにも書いたがこの2つを詳しく説明すると以下のようになる。
物理的知識
➡︎実装可能な知識。医学、工学、栄養学…私たちの眼に映る現象を引き起こす知識。いわば専門知識だ。
自己啓発知識
➡︎やる気、あり方、働き方、生き方など。大抵は流行的な知識であり、断片的。この知識の持ち主が実装できる人、とは限らない。もちろん、役にたつものもあるが
例、ライフ〇〇ト生命の方々。
【映画ファウンダー】過去のものを探り良さと展開力に気づく
最近、話題のファウンダーという映画を観た。
この映画を観るまで知らなかったが、マクドナルドをここまでデカくしたのは創業者ではなく(もちろん、創業者の兄弟は優れたシステムを作っていたが)、シェイクを作るマシーンの営業にきたサラリーマンであった。
その営業マンはレイ・クロックという。
彼は「マクドナルド」というセルフ式のパーキングレストラン(当時はウェイトレスが車まで注文を聞きに来るのが普通だった)をたまたま見つけ、厨房の効率化されたシステムなどに感動して、フランチャイズ化を持ちかけた。
とまぁここからは映画を観てのお楽しみだ。私はここから
①良いものに感動し
②展開する構想
を持つことの素晴らしさを感じた。
逆に、誰もクオリティの高くないものを俺なら余裕でクオリティを高くできる、と見つけることも素晴らしい。
落合陽一さんも常々言ってるけど、過去の論文を漁りまくって、それでもないものを新しいものだといえる、と。
やりたいことがないとはイメージがわかない状態を指す。イメージがわかないとはリサーチ不足を指す。リサーチ不足なら、感動不足。感動不足ならやりたいことは見つからないのだと思う