「嫌われる勇気」を読んで 〜目的論を振り返る〜
嫌われる勇気では原因論ではなく目的論の考え方を推奨していた。
今このような状態なのは昔の〇〇が原因だ(原因論)
〇〇の状態でいたいという目的に向かった行動をしている(目的論)
原因論はその原因に囚われてしまい、中々前に進めない可能性があることから、本書では目的論で生きることを推奨している。
本書では特に人間関係の事例を扱っていたが、それ以外の目標設定について書く。
私は目的論で生きることは過去とセットで考えるとより良いと思う。
というのも、あまりにも大きな目標設定は、結局出来ない時に原因論に戻ってしまうからだ。
例えば、低学歴の人間が研究者としてトップになるのはほぼ無理であるが、勉強することは可能である。
過去ずっと太った人がダイエットすることは可能であるが、スポーツ選手として大成するのはほぼ不可能である。
といった具合だ。目的論目線で過去を振り返ると、(上の例でいうと)太っていた時代からスポーツ選手を目指していたなら、その当時に適切な行動をとっていたはずだ。
ここから読み取れるのはいきなりのジャンプアップ目標はメンタル的にも良くない、ということだ。
太った状態からスポーツ選手を目指す
→出来ない
→ダイエットすら続かない
私には身近な人間に、原因論で生きている人がいる。祖母だ。
体調が悪くて何もできない。といつも言っている。
これを目的論でとらえると「何もしたくないから、こう言った発言をしている。」となる
あの長嶋茂雄さんは常に病気と闘っているが、全く違う目的を、持っているのだろう。なぜ目的を持てるのか?それは若い頃の積み重ねだろう、と思った。
若い頃の目的達成の数が老後の目的達成の継続性をもたらす。
(こう書くとやっぱり原因論じゃね?とも思うが、やはり目的設定が重要なのである。病気に立ち向かうことはふつうの老人であればできる。)
目的論を持つために目的を持った過去の自信(原因論)があるとより良い。
祖母と長嶋さんの例を見ても、功績の大きさではなく、行動することが全てだとわかる。
違ったアプローチだが、何もしたくないが目的として続いた場合、やりたいことが起きてもなかなか難しいのではないか、と思う。これはニートにも言えるかもしれない。だから人間は(うつ病ではない限り)目的設定をするべきなのだ。と思った。
あと、自分がコントロールできることに注力するべきだ。
特に、それなりに歳がいっている人はなおさら。
僕もナンパを勧められてやったことがあった。でも、ふと思った。「そもそも、昔からナンパとかチャラいことに慣れてる人には勝てなくね?」と。
ここで間違いなのはチャラい人になろうとしてることだ。(原因論寄りになる原因として、先天的な要因の例だけ見てしまうこと。後天的な例をみてみよう)そんなことな必要ない。今より良くなればいいのだ。今からよくなることの定義を自分で決めて、目的と目標をたてるのだ。
「正義の話をしよう」どこまで相手に寄せるか
昔、なぜか演劇のレッスンを受けていた時、こんなことを言われたことがある。
「犯罪者には犯罪者の正義がある」
正義、というとつまり真っ当な行動をする人、とか真面目、とかそういったイメージをするだろう。
しかし、ここでいう「正義」とはつまり意図とか目的とかそういったものだ。
で、だ。私は最近こんなことに巻き込まれた。
先輩Aが別の先輩BとLIVEの約束をしていたAは行くと言っていたのにもかかわらず、やっぱりやめたと言う。また、いけなくなるようアリバイをわざわざ作りそれがBにばれる。直前になってやめたくせに金を払わない。などなど。
で、これに腹を立てたBがAに対し、電話をかけるが逆ギレしていて全く電話に出ない。で、それに対して「上の人に言いますよ」的なことをラインで送ったらしい。それを横で私は聞いていた。
で、まぁ後日Aは俺の方が悪かったと。しかし、私に対してなんで止めなかったんだ、脅迫だ!とかなんとかなってるらしい。
バカバカしすぎて何も出来ない。と、思っていたし他の人も意味がわからない、とまぁそんな感じ。
でもただ1人「いや、悪いでしょ」と言った先輩が。その先輩曰く、相手が面倒クセェなら面倒クセェ人に合わせた対応しなきゃ、らしい。
なるほど。
たまたま今日、ドンキホーテに買い物に行った時、いわゆるクレーム客がいた。でも、店員さんはニコニコした対応で相手の気分を損ねずにやってみせた。
素晴らしい!
これぞ日本のサービス業!
…?
さて。
ここまでで出た結論。
相手を選ばない状況において(客、同僚)、それを捨てることはできない。
逆に相手を選べる状況ならば、それを捨てることができる。
人に迷惑をかけてはいけない?
親の教えか何かで
「何してもいいよ、人に迷惑をかけなければ」
なんてのがある。
はて。
迷惑とはそもそもなんだろうか?
家族に迷惑をかける?
友達に迷惑をかける?
会社に迷惑をかける?
うーむ。
友達との待ち合わせに遅れたら
迷惑がかかる。そりゃあそうだ。時間、機会の損失につながる。
金を返さない。これもそうだ。
でも、
親はこのことよりも
「周りの人に迷惑かけないでね」って直接子供に言ったりするわけ。
友達とケンカしたとか…迷惑?
会社の人から
転職して…迷惑?
うーん
嫌われる勇気とは迷惑をかける勇気かもしれない。
いや、というか相手を不快にさせる勇気かもしれない。
先生になりたいとは何なのか
僕の祖父は先生になりたかったらしい。
あまり裕福な家庭ではなかったため、教育が受けられることに喜びを感じていたとのこと。結局、教師にはならずに大工になるしかなかったんだけども。
先日「ちょっと今から仕事やめてくる
」を鑑賞した。
内容はざっくりいうと、ブラック企業で働く青年が自殺を試みていたところをある男に助けられ、その出会いが青年を変えていく…というもの。
ブラック企業とか家族の絆とかそっちがメインテーマになっているが、ここでも先生が登場する。主人公の青年を自殺から救った男(演 福士蒼汰)だ。この男は海外の貧しい村に出向いて数学の先生をやっているという設定だ。彼も孤児院出身で、教育のない国に教育を与えたい
と感じ、教師に。
で、だ。一般的に教師になる人の志望動機とはなんだろうか?
「昔習った先生に憧れて」
「日本の教育に問題を感じていて」
「安定してるから」
まぁ色々あるだろう。
先生といっても塾の先生もある。
これは単に教えるという行為が得意だったとか、生徒の成績を上げたいとか給料の面とかこちらも色々あるだろう。
先生といってもスポーツコーチもある。
…
…
で、だ。そもそも、先生という職業は相手の意思ありきの商売なのではないか、ということである。
つまり、テストの点数上げたい、大学に合格したいから塾に行くし、バッティングがうまくなりたいからスポーツ塾にいく。
ふと思うのは例えば、スポーツチームに子供が入ったとして(特にうまくなりたいとかはない)その意識の子供がコーチなどに「うまくなりたいんじゃねえのかよ!」などと怒鳴られるのを見て不毛に思うわけである。
もちろん、自分には向いてなかったり、楽しくないと感じたらやめればいいのだけれど、親によっては「せっかくなら続けなさい」などと言って辞められないケースもあるだろう。
何が言いたいのかというと、スポーツチームで「とりあえず一緒に野球しませんか」みたいなスタンスのスポーツチームがあるなら、中のコーチはそのスタンスを認識すべきだと思う。
つらつらと
日記を書くこととアウトプットは違う
とある精神科の先生が言っていたが
日記を書くことはストレスを解消したり、メンタルを落ち着かせることに有効らしい。
なぜなら、今日あった出来事を後日俯瞰して見れるからだ。たいていの場合、「寝たら忘れる」のが人間である。
もし感情の乗った文章を書いても落ち着いて読むことができる。そして、その日何があったかを俯瞰して読める。
心の面を整理する上で日記はいい。
しかし、だ。
日記だけでは何も成長しない。
なぜなら新しい情報が何も入らないからだ。
特に本を読む上で気をつけたいのは
「感情オンリーのアウトプットはしない」ことだ。
自己啓発本でやる気になったとしても
「やる気になった!」と書いてはいけない。
・何がやる気になったか
・何をやるのか
これがアウトプットできない時点でインプット失敗だ。
新聞や専門職、教科書がいいのは感情がほぼ無い情報が得られるからだ。それに対して自分の感情を乗せればいい。
というか自己啓発本に「操られてしまう人」は相手の感情支配をされているからである。
自己啓発本こそ俯瞰して事実を読み(だいたい言ってること同じという事実)
新聞や教科書ほど気持ちを予想する。
これが大事だと思う。
軸を持つということ
よく研究者の方が
「1つのことをみたり、接したら言語化しなさい」と言うらしい。
そして、多くのものさし=軸を持つことが大切らしい。
軸とはりんごを見た際に
・色
・味→甘さ、酸っぱさ
・出生地
・育て方
など…
で、いきなりこれをやるには難しい。
まずはイメージしやすいものから。
僕は生きてきてサッカーと建築という事象に関わってきた。
これらは「サッカー」「建築」という1つのキーワードの中にかなり多くの軸が入っている複合的キーワードだと思う。
サッカー
・ポジション
・スタジアム
・監督
・戦術
・大会
・ユニフォーム
・国
…
建築
・構造
・材料
・設備
・用途
・歴史
…
ここで並べた軸は、さらに細分化できる。つまり具体化が容易である。しかし、もっと具体化し続けていくと…具体化が難しくなり軸を持つのが困難になる。
ここまでくると、その具体化したキーワードについて勉強したり、調べたりしないと新たな軸が生まれない。というか、これこそが勉強することではないか。
キーワードと軸を増やすこと。
本田圭佑をみて思うこと2
本田圭佑といえば小学生の頃の文集が有名だ。
確か小学6年生の時に「セリエAで10番をつけて活躍してる」みたいな内容だ。
話がそれるが、日本の子供は将来の夢を書かされる教育を受けているらしい。
学科の先生に「夢はないの?」と言われ
「ケーキ屋さん!」とか「けいさつかん!」などとその場の雰囲気や知っている職業で答えたりする。
もちろん僕も漏れなくそうだった。
サッカーをやっていたから、周りもそう書いていたから、そんな理由で夢の欄に「サッカー選手」などと書いた。
でも、子供ながらにサッカー選手になれないことはわかっていたし、そもそもサッカーを楽しんでいなかった。
でももちろん、サッカーを心から楽しんでいない子供は山ほどいるだろうし、サッカー選手になれると思ってもないのにサッカー選手になるのが夢と書く人も山ほどいるだろう。
では、本田圭佑のような本気でサッカー選手になる、と宣言できる子供は?
これにはまず、子供がサッカーを始めて一ヶ月の期間はとにかく変化を楽しませることが必要。これが第一歩である。
この一歩が意外と大事な気がする。この期間で潰されたり、そもそも変化を楽しむことができないと、サッカーを嫌いになるか、なんとなく続けるだけになる。
よく子供が演劇の役をやらせて、観客の反応があって、芝居をやるのが好きになる、みたいなアレである。これが1つの分岐点。
※この前サクラクエストというアニメの中で、役者経験のないキャラが映画女優をやっつけでやり、中々上手く演じれていなかった。そこで女優経験のあるキャラが「ここで私に変わったら、一生あの子人の前に立たなくなる」とアドバイスをするにとどまった。
前回の筋トレ記事でもそうだが
最初の一ヶ月は継続+変化が大事である。特に親が教育するならその変化を感じさせてあげること。
それがないなら正直に「今は夢がない。」と書くべきだ。それはそれで親や先生がヒントを与えてくれるかもしれないから。